真理は、万有に共通 三世を貫く永遠不動の原則である

 真理という言葉は古くから使われ、誰もが口にする言葉であるが、まことの真理ということは、いまだ古来はっきりそれを把握して、その真相を伝えているものは見当たらない。

 まことの真理というものは、いっさいのものが生まれいずる根本の原理法則である。

 たとえていえば、空と海が陰陽二つに分かれて、その中心に水平線があるが、そのようなものである。

 いまそこに風が起きて波が生ずれば、千波万波、怒涛のような波から、さざ波に至るまで、どの波ひとつ捉えてみても、水平線を起点として寸分の狂いなく上下に動いている。

 もし波が止まれば、空と海とが判然としてくる中に、動いているときには目に見えなかった、いっさいの波を貫く、一本の水平線がはじめて現われてくる。

 それと同様に、もし宇宙いっさいの運動が停止したとすれば、同時に、宇宙三世、万有を貫く、一つの中心起点の実在がはっきりする。

 その中心から躍動がはじまると、森羅万象が活動をはじめて、それは波と同じように、大あり小あり、刻々変化して常に固定したものがない。その複雑々多、微妙な現象界の動きも、常に中心の真理原則を起点として躍動していることは、ちょうど波が水平線を起点として動くのと同様である。

 その中心を貫いた永遠不動の原則を指して、今日までの言葉を当てはめて真理という。

 東洋の哲学では、老子が「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」といって相当深くはいったが、惜しいことにいま一歩の踏み込みが足らず、一のところまでは到達できたが、一そのものを割り切ることができなかった。

 その一から最後の零のところまで極めつくすとき、一、即多であり、一、即全である。そしてまことの真相、真理がそこに把握できる。その零から、万有が生まれ出てくるところに、一つの秩序整然とした原則があり、それが真理である。

 それを知り得て初めて、すべてのものの、今日の科学のなお及びえない最後のところが把握できて、この現象界がそれによりいっさいが解決され、割り切ることができるのである。

 そこに到達するまでは、今日の原則は明日また改まって、つぎの新たな原則というように、走馬灯の影を追うごとく実体を掴むことは不可能である。したがって、いまだ真の指導原理というものは得られていない。

 政治にしても、医学にしても、みなその中途にあるがゆえに矛盾を生じ、全人類がいっさいの面において混乱状態に陥っている。

 ゆえに何よりも、一を割り切り得て究極の零に到達し、その零から再出発して、森羅万象に展開してゆくところの原則を掴むことが肝要である。そこに初めて、まことの真理というものを理解することができる。

 まことの真理は、宇宙究極の理法であると同時に、万有一切を生ずる中心原動力である。ゆえにそれは四方八方、前後左右、一切を通じて、悠久の過去より、永遠の未来にわたる不動の原則である。