「三種の神器」と「勾玉」は 八万四千の法文に勝る

 日本には古来から皇室に伝わる三種の神器という三つの宝物がある。

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)から邇邇芸命(ににぎのみこと)が授かり、皇孫に伝わる神宝(しんぽう)。皇位御璽(こういのみしるし)がそれである。

 三種の神器とは次の三種の総称である。

   八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

   八咫鏡(やたのかがみ)

   天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)

 その三種の神器と頸(くび)に飾る曲玉(まがたま)、管玉(くだたま)、丸玉(まるたま)は、現代の科学常識以上の、またキリスト教や仏教の教理以上の、最高究極の哲理を表現している。

 その深遠な原理が、自然のうちに、国家社会組織のうえに影響して出来上がっているのが日本の国柄であり、そこに比類なき皇統連綿とした三千年の歴史を持っている原因がる。

 ではその「三種の神器」と「頸飾(くびかざ)り」は何を意味しているのか。人はただそれを宝物のように思っているが、その中に秘められている根本の真理そのものに価値があり、その真理を体得して、日常生活のうえに活用してゆくときに、はじめて三種の神器の神意が発揮される。

 三種の神器に中の“鏡”は、太極を表している。すなわち、一切万有の生ずる以前、躍動する以前、この天地宇宙一切のものが運動を停止すると“鏡”の姿になり、“あるがままの空”となる。その中には、物心にわたる一切がみな包含されている。

 もし一点でも曇りがあり、また一物(いちぶつ)でも生ずれば、もうすでに内外、上下、左右、遠近という差別的相対の姿になるが、運動を停止すると、一元(いちげん)に戻って、“あるがままの空”になる。そして有無一如のところから出発し、それが分かれると物と力になって現われてくる。故に“玉”が有形の物質を、“剣(つるぎ)”は無形の力を表現しているのである。またそれは陰陽両極になってくる。

 あるがままの空とは、一切のものが運動を停止したときである。時とは、運動による変化の尺度にすぎない。運動はまた力を生ず。

 二対(につい)以上の力の交差点において、始めて物を生ず。力は放力(ほうりょく)と引力(いんりょく)とを同時に生じ、他の二大力(にだいりょく)と相交差して、他の引くものを放ち、放つものを引く、ゆえに停止することなく、無始無終(むしむしゅう)に運動を引き起こす。

 かくて如何なるものも、引力と放力との作用なきものはなし。故に一定の物質なく、一定の時間もなし。

 換言すれば、万物一切は、力の交差点にして、交差点の連続が存在となる。

 力を去って物なく、また時もなし。また変化無き所に力なく、変化は二物(にぶつ)以上に生じ、一物(いちぶつ)なる時は空(くう)である。

 空中に有の出現により、空と有の交差点はものを発生する。

 このように、日本の皇室に受け継がれている、三種の神器の中に秘められている哲理は、ものの始まり、最高究極の原理を表現しているものであり、それは現代の科学以上のものである。

 また頸に飾る曲玉(まがたま)“点”、管玉(くだたま)は“線”、丸玉は“円”を表現し、点、線、円はものの始まりの姿を示している。

 そして、そのいずれもの中心に孔(あな)を穿(うが)き、共通した空間を作ってあるのは、空(くう)は零(ゼロ)であり、零(ゼロ)はまた霊に通じ、その中に陰陽を撚(よ)り合わした一本の真理に相当する紐を通して丸く結び、しかもその丸紐(まるひも)から五行(ごぎょう)の足を出して木火土金水(もくかどこんすい)を表している。

 注釈:五行とは、中国古来の説で、万物のもとになる五つのもの。木、火、土、金、水の五つをいう。陰陽説と結びつき、宇宙の万物はすべて五行の力によって生成されると説く。(新選漢和辞典による)

 このことは、無の空間から有を生ずる万有実在の原理を表徴しているのであ

るが、その哲理があまりにも深遠なため、文化が進み一般に理解できるまで宝

物の中に秘められて、言挙(ことあげ=口に出して云うこと)せず、ただ信仰

し今日に至ったのである。

 言葉や文字は、非常に重宝のようではあるが、ものの真相を伝えることは不

可能である。ゆえに日本の国は言挙(ことあげ)せずに、三種の神器と頸飾り

によって、真理・神の道を伝えてきており、それは一切に共通する根本原理で

もある。

 したがって、今までのように科学的理解力が幼稚な時代には、一般に知らし

めることは不可能であって、時が来てその原理が理解され、その理法を日常生

活のうえに実行して行けるときに、はじめて現在の対立や矛盾は一切解消し、

暗黒より光明へ、闘争より共存共栄へと急転し、人類が待望している平和な時

代をおのずから迎えるようになる。

 そして時代は、ここ数十年来、急速な進歩を遂げた物質科学知識により、その原理を科学的に理解しうる下準備が出来てきた。しかし、現代はまだ“玉”が象徴する物質科学知識に片寄り過ぎて、“剣”が象徴する、即ち精神科学方面を忘れている。ゆえに剣と玉の両面にわたる物心未分以前の“鏡”の精神が得られる二十一世紀時代には、それが融合一体化し、そこに始めて人類待望の理想社会が生まれ出て来る。

 このように日本の国は、聖書や経文のように細かく説いていなくても、すでに数千年前に根本の原理がはっきりと出ており、それが知らず知らずの間に身につき力となって、他に比類なき三千年の歴史を持っているのである。

 ゆえにこれからは、この偉大なる神の道・真理を意識し、自覚体得して実行に移すとき、日本は初めて本然の姿に立ち戻ることになる。