一切の物を善用するところに神の道あり 人の歩むべき誠の道がそこにある

 世にある一切のものは、活動のあるところに存在があり、活動には進退、善悪、表裏という両面をみなもっている。そして正しく進むときにはそれが善になるが、その反対に動くとき悪となる。ゆえに、ものには決定的善悪というものはなく、みなその踏みいだし方、動き方によって善悪が生じてくる。

 人は今まさに踏みいだそうとするその方向を誤らないように、すべて天の法則に順応してゆくとき、それは善となり、反するとき、それは悪となる。

 いま仮りに手近な例をいえば、包丁は料理に用いれば重宝なものだが、誤ってそれを賊が持てば凶器に変わる。

 火も煮炊きや暖をとるには結構なものだが、ひとつ誤ると大火を起こし災いのもとになる。水にしても喉(のど)を潤すが、不自然にくれば、飢饉(ききん)ともなり津波ともなる。

 風も同様で、空気は最も必要なものだが、それも気圧の変化で限度を越して動き出すと、大暴風ともなり、大きな災害を引き起こす。

 このように、ものには決定的善悪はなく、踏みいだすその方向によって善悪が生じ、限度を誤るとき災いとなる。

 ゆえに人は、いっさいのものを、如何によりよく働かしめるか、どの方向に進むことが、最もよく自然の法則に従っているかを、よく見定めて行動することが大切である。

 米麦も時期を間違えて種を蒔いては、目的どおりの収穫が得られない。また石の上に蒔いたのでは生えない。すべて時と場所と用法によって、善悪功罪が分かれてくる。それを知って、誤らず行動するところに神の道があり、人の歩むべき最高の道がそこに見いだされてくる。

 世にある一切のものは、活動のあるところに存在があり、活動には進退、善悪、表裏という両面をみなもっている。そして正しく進むときにはそれが善になるが、その反対に動くとき悪となる。ゆえに、ものには決定的善悪というものはなく、みなその踏みいだし方、動き方によって善悪が生じてくる。

 人は今まさに踏みいだそうとするその方向を誤らないように、すべて天の法則に順応してゆくとき、それは善となり、反するとき、それは悪となる。

 いま仮りに手近な例をいえば、包丁は料理に用いれば重宝なものだが、誤ってそれを賊が持てば凶器に変わる。

 火も煮炊きや暖をとるには結構なものだが、ひとつ誤ると大火を起こし災いのもとになる。水にしても喉(のど)を潤すが、不自然にくれば、飢饉(ききん)ともなり津波ともなる。

 風も同様で、空気は最も必要なものだが、それも気圧の変化で限度を越して動き出すと、大暴風ともなり、大きな災害を引き起こす。

 このように、ものには決定的善悪はなく、踏みいだすその方向によって善悪が生じ、限度を誤るとき災いとなる。

 ゆえに人は、いっさいのものを、如何によりよく働かしめるか、どの方向に進むことが、最もよく自然の法則に従っているかを、よく見定めて行動することが大切である。

 米麦も時期を間違えて種を蒔いては、目的どおりの収穫が得られない。また石の上に蒔いたのでは生えない。すべて時と場所と用法によって、善悪功罪が分かれてくる。それを知って、誤らず行動するところに神の道があり、人の歩むべき最高の道がそこに見いだされてくる。