世に偶然というものは一つだになし 万有一切、超科学的原理によって生ず

 人は運、災難、偶然ということをいい、またそれによって支配されているように思う人が非常に多い。

 しかしそれを突き詰めてゆくと、ものはすべて因果の法則にもとづいて、秩序整然とした一つの原則のもとに動いている。

 大は天体の太陽から月、さらには無軌道のようにみえる彗星のようなものまで、一定の周期があって回っている。

 地球の自転と公転も、何千年という永い期間に、その生じた狂いは計算できぬほどの正確さであって、大がそのとおりであるから、最小微細なところへはいっても、みなその法則から外ずれるものは一つもない。

 あの野球のホームランにしても、あるいは打球が横にそれて飛んでゆくのもみな偶然ではなく、バットの振り方、力の入れ方、球の当たり方等によって、そのとおり正確な結果が現われている。

 また撞球(どうきゅう)の名人が、思うように球を当ててゆくのも同じであって、突くときの姿勢や動作、球の位置、角度等による計算があり、かつ熟練すると自由自在に当たってくる。

 そしてこのことは、単に勝負事だけのことではなく、日常生活の何事にも当てはまる原則であって、事が思うようにゆかないとか失敗する原因というものは、突き詰めてみれば、必ずそのような方向へ自分が第一歩から踏み出しているのであって、その結果は寸分も違わず正確に現われてくる。

 ゆえに人は、何事をするにも、因果の法則をよくわきまえて、自然の動き、神の摂理に順応し、その軌道から外ずれないように進んでゆくときに、労少なくして最も効果的な結果が得られ、自力の何百倍、何千倍とも知れぬ大きな働きができるものである。

 それは自己の働きではなく、偉大なる自然の力に、自己の力が便乗し一致して現われるのであって、そこに想像を絶した大きな結果が得られるのである。

 いかに自力が大であっても、自然の動き、神の摂理を無視すれば忽ち消滅してしまわねばならない。

 百姓の名人も、四季の移り変わりを無視して種を蒔いたのでは、いかに努力しても目的どおりの収穫が得られない。

 立派な収穫を得ようとするには、まず自然の動きである四季の節を誤らず、そのうえで努力を加えてゆくときに、はじめて目的と結果が一致する。

 しかし多くの人は、その中心基本に気付かず、無闇に我流で飛び出すから、事が思うようにならないのである。

 一時は非常な勢力を得ても、一つ躓(つまず)きを生ずると、もう別人のように変わって手も足も出ない人がある。

 それは結局、その軌道をはっきり自覚せず、意識しないでその法則に乗り、一致したときに伸びたのであって、そのことを諺では「犬も歩けば棒に当たる」「下手な鉄砲も、数撃てば当たる」等といい、それが世にいう偶然である。

 しかしその偶然といわれる現象の裏面には、天地三世を貫く偉大なる不動の原理法則が潜在し、それによって、いっさいのものが支配されているのである。