世の財を集むることは難きも自己完成の自由は、何人にも与えられている

 人は、いろいろの欲望を満たさんがために努力しているが、外部のものを集めるということは、なかなか容易でない。

 これに反し、各自が自分を立派に完成させるということは、誰にも与えられた自由であり、実はそれが、何よりも根本的に必要な極めて大事なことである。

 しかしその自己完成ということは、自力ではほとんど不可能といっても過言ではない。

 なぜかというと、人間は、肉眼によってものを見ているように思っているが、肉眼の奥に心の鏡があり、それによってものを判断しているのである。

 その心の鏡が、環境や自分の行い、また先祖からうけついだ、いろいろの不自然な原因が因縁となって、イビツになったり、曇ったり、あるいは色がついたりしているので、見ていることが正しく写らない。

 そのために、ものの判断を誤って、努力していること自体、根本がその真実真相から離れているので、いかに努力しても真の自己完成は得られない。世の中のほとんど人が、思うようにいかない原因がそこにある。

 その過去の悪因縁による、心の鏡のイビツをなおし、穢(けが)れを取り、そして明鏡のようにして再出発するとき、目的どおりの結果が得られて、自己を完成することができるのである。

 しかし、その心の鏡の狂いを改めるには、それを狂わしめた力の幾十倍、幾百倍もの、強力な正しい力が必要である。それは偉大なる神格者の神力に触れるとき、はじめて可能となる。

 いま仮りに、蓄音機の音盤に、悪い歌が吹き込まれて音を出しているとき、立派なものに変えようとするには、最初の歌を吹き込んだ力の、何倍、何十倍もの力をもって、吹き込み直しをすれば変わってくるのと同様である。

 それをせずに自分の努力だけでは、たとえ倫理道徳を聞いてみても、心の鏡の狂いや、すべての悪因縁を容易に取り去ることは不可能である。そこにいま多くの人々が、努力しながらも悩み苦しんでいる原因がある。

 そして偉大な神力によって、過去の悪因縁が消滅し、心の鏡のヒズミや曇りがとれたとき、ものの真相が写ってくる。

 そこに努力し、それによって事をなすとき、はじめて目的と結果が一致してくる。

 ゆえに結局は、偉大なる神格者に触れて、心の鏡を是正することが先決問題である。