交通事故から社会復帰

所沢市  足立 勤一
昭和62年(1987)11月10日にご縁を戴き、今日まで第二の人生と思えるほど充実した人生を活かさせて頂いておりますこと、心より深く感謝御礼申し上げます。
今思えば、入信当時は、身も心も深く傷ついておりました。「身から出たさび」の諺通り、私自身の、自意識過剰や傲慢さを反省しつつ、しかし、再生をするための準備もしておりました。
振り替えれば、昭和41年(1966)に教員になり、研究も、生徒指導も、更にはピアノ演奏活動など、教育指導とピアノの演奏活動も順風満帆で過ごしておりました。
昭和40年代から50年代は、文部省(現文部科学省)の学習指導要領編集委員に任命され、約20年間は日本の音楽教育のリーダの一人として活動しておりました。
昭和50年(1975)には妻・範子と共に、当時西ドイツのデュッセルドルフにありますラインラント音楽大学のM・Mシュタイン先生の下でピアノ研鑽の為、留学する機会も与えられました。
帰国後も、音楽教育に於きましては、「国立大学協会第三部会音楽科研究会」の研究委員としても活動しておりました。
そのような毎日でしたので、当然、日々の学校に於ける教育活動(学生指導)は十分ではありませんでした。
私の心の内には、国立大学の教員は、その教科の専門性を活かし、日本の「音楽教育の向上」に寄与することが与えられた使命と考えておりましたし、「その任務を全うしなければ」、更に、「視覚障害のある人々の社会的な地位向上を」、との思いで日々過ごしておりました。
今思えば、ある意味で自信過剰・傲慢な態度でした。
それを裏付けるように、音楽科在学生には、ともかく実力を付けて、「音楽大学を目指そう」との合言葉を標榜し、受け入れ態勢が無い日本の音楽大学の門戸開放運動を広げました。
次第に、武蔵野音楽大学・国立音楽大学・洗足音楽大学・日本大学芸術学部・東京芸術大学が門戸を開放して受験の機会を与えてくれました。
私の心の中では、「視覚に障害のある学生が四年間勉強した後をどうするか?」が課題となりました。
そこで、視覚障害のある音楽大学卒業生・在校生で昭和53年(1978)に音楽集団「新星‘78」を立ち上げました。
社団法人「青少年音楽協会(会長E・カニングハム女史)」が支援してくれました。
チャペルリサイタルとして、視覚障害のある音楽家や高等部在学中の若い青年によるユニークな演奏会が新聞に報道され、更に、在京の各国大使館においてのコンサートを開催して頂きました。
評論家の秋山ちえ子先生が突然私の学校に訪問され、これまでの私達の活動について取材をされました。
秋山先生は、それから「新星‘78」の積極的な支援者となって下さいました。映画監督の松山善三先生、タレントの永六輔さん達と「われら人間コンサート」を企画して下さいました。
このコンサートは、クラシックのみならず、音楽の色々なジャンルの方々と共に、色々な障害のある音楽家達によるコンサートです。
毎回の演奏会に「新星‘78」のメンバーを出演させて下さいました。
その後の「われら人間コンサート」は、北は青森から南は大分迄、全国各地で開催されました。その「われら人間コンサート」には、全て私が裏方の手伝いを致しました。
「われら人間コンサート」は、次第に発展し、昭和58年(1983)11月、名古屋・大阪・東京にて、アジアの障害者が手をつなぐ「われら人間コンサート」を開催致しました。
この準備には一年半かけました。秋山先生を中心に、松山善三先生、ソニーの井深 大氏、国会議員の八代英太氏も役員に加わりました。
音楽の専門家として、指揮者の福田一雄氏、民俗音楽研究の第一人者である東京芸術大学の小泉文夫教授を顧問格にお迎えし、私はその事務局長として、事務所に寝泊まりする形で、インド・パキスタン・シンガポール・タイ・フィリッピンから障害のある演奏家を迎えました。
障害者の社会的自立を願っておりましたので、演奏会だけではなく、国際シンポジウムも、サンシャイン国際会議場で開催し、音楽学者の徳丸吉彦先生の司会で、参加5カ国と日本側のパネラーとして平野健次教授を迎えて、各国の音楽事情や障害者のおかれている状況等のシンポジウムも開催致しました。
その後、平成2年(1990)に、‘90 FESPIC CONCERT(アジア・太平洋地区)「われら人間コンサート」 として発展し、東京をはじめ全国10都市で開催致しました。
アジア太平洋諸国からは、オーストラリア・韓国・中国・香港・タイ・フィジー・インド・パキスタン・インドネシア・ネパールの10か国から障害のある演奏家をお招きして、交流演奏会を行いました。
このように、学外における活動が主となり、それなりに、障害者の地位向上に向けた活動は軌道に乗りつつありました。
それが一番の喜びとなりました。
しかし、私の外部での活動が多くなればなるほど、その反面、同僚の音楽科教員や、他の教員との軋轢や指導上のトラブルもあり、「こんなに障害のある学生の為に活動しているのに、何故非難されるのか?」と、毎日「自問自答」し、又「どうしてなんだ」、「何故だ」とばかり他人を非難する態度に陥ってしまい、苦悩の日々でした。
そんな苦悩の毎日、私の一番身近にいました妻・範子は、ある日しんみりと、「私が信じている神様にお願いしたらどうか?」と言われた時、どういう訳か「すーっと」その言葉が身体に入りました。
恐らく、周りにも分かる位悩んでいた姿であったことだと思います。
妻の導きにより、(当時の神霊教)青葉台教会にて、入信のお許しを戴きました。
それは昭和62年(1987)11月10日の事でした。
「天分発揮」をご祈念させて頂き、入信直後は、心やすらけく過ごさせて頂くことを第一と考えて、時間内に伺えない時は、御門の外でお参りさせて戴きました。
城南第一地区に所属し、教会に参拝することは勿論でしたが、地区の集会にも参加させて頂き、御教えの勉強をさせて頂きました。
地区の信者さんと共に万寿山のご奉仕もさせて頂きました。
また、青年部の太鼓の指導も一緒にご奉仕させて頂くなど、徐々に自己内性的な立場に変わり、他人を非難することから自らの行動の反省に変わり始めました。自らの不徳の致すことが、身にしみて感じる事が出来るような毎日でした。
その時期ちょうど、筑波大学から20年の永年勤続賞を頂いた機を境に、横浜国立大学大学院にて研究し直す事を決心し、受験勉強を始めました。
教祖様へのご祈念も続けてさせて戴き、今後の進路についても御加護ありますよう、お祈りする毎日でした。
教団の行事で思い出されるのは、「体験発表会」や万寿山でのご奉仕、更に、研修会や体験発表会で流される映像に音楽を付けるご奉仕もさせて戴きました。このご奉仕を青葉台教会で夜遅くまで、時には徹夜で作業させて戴いていた時に、事務局の方々と親しくさせて頂いておりました。
彼らとの会話の中で、「教団内部も大変だな」と薄々感じていました。
平成元年(1989)に一年遅れて大学院を修了致しました。更に人生勉強をと思い、社員教育研究所の講師となり、一般企業の新入社員や、小・中、高校生のセミナーなどを担当致しました。
そろそろ大学に復帰したいと思っていた、平成5年(1993)9月26日の日曜日午後5時前、突然の自動車事故に遭いました。
発生時刻は、まだ陽は高く明るい状況でしたが、飲酒運転の2トントラックの左側ミラーが私の後頭部を直撃致しました。
救急車で新宿にある東京医科大学病院に搬送され、緊急手術を受けました。
脳挫傷で開頭手術を受けました。
2日後に病院で目が覚めるまで全く記憶も御座いませんでした。
目覚めると、周りが薄ぼんやりしてきました。全く身体を動かす事が出来ず、麻酔も切れた為か、激しい頭痛もある状態でした。
しゃべることも出来ませんでした。
恐らく数日後だと思いますが、妻と執刀医である主治医の先生の会話は偶然全て聞こえていました。
会話はできない状態でしたが、脳の全てが破壊されていたわけではありませんでしたので会話の中味も十分に理解出来ました。
主治医からは、「命は助かりましたが、今後は余生を楽しく過ごして下さい。
社会復帰は出来ないでしょう。」と言っておりました。それを聴いた私は、「冗談ではない。
絶対職場復帰してやるぞ。」と心の中で叫び、復帰への思いで一杯でした。
教祖様に「もし、私が今後社会に役立つ使命があるのでしたら、お救い下さい。」と心の中で毎日ご祈念させて頂いておりました。
その後、容体が安定し、自力歩行も許されましたので、今後のリハビリを考慮して、リハビリを専門に受けられる田無第一病院に転院致しました。
しかし、現実は頭を動かすとくらくらし、歩けば転倒するような恐怖に冒され、平らな廊下は歩くことが出来ましたが、階段は勿論、少しの坂や段差でさえ、頭から落ちてしまう恐怖を取り除くことは本当に困難な事でした。
また教祖様に助けて戴いた事を思い、「事故は、これまでの私の思考や行動における悪い血を全て出させて戴き、再生する為に必要な出来事である」という気持ちを次第に強く持てるようになりました。
一日も早い社会復帰を望んでいたため、リハビリには毎日進んで指導者に従って行いましたが、3ヶ月経つうちに、悶々として思い悩んだ末に、とうとう退院する決断がつきました。
又、退院すれば教会にも参拝に行くことが出来ます。一日も早く病院を退院し、自力で社会復帰のためのリハビリをする事に致しました。
自宅に戻っても、私の気持ちは教会に行くことしかありません。
妻の運転する車で参拝に行かせて戴きました。
「お式」にも皆様のご迷惑にならないように参列させて戴きました。
ちょうど自宅の近くには柳瀬川というそれ程大きな川ではありませんが、両岸に遊歩道があり、のり面には雑草が生い茂っているロケーションでした。
初めは、遊歩道をゆっくりと歩く毎日でしたが、「のり面をおりてみたい」、「やれるのではないか?いや、やらねばならないのだ」、という気持ちが大きくなりました。下を見ると、目まいがするくらい恐怖心もあり、足を動かそうとしても、その第一歩の動きが出来ません。漸くどうにか一歩を踏み出すことが出来ました。何回もこけました。幸い転んでも、地面に頭を強く打つ事は避けられ、次第に勇気が恐怖心を上回り始めました。
教会の御式の日は必ず、妻の運転で伺い、参列させて頂きました。
こうなれば、社会復帰に向けた気持ちは更に高まり、電車に乗ることを考え始めました。
電車に乗ると言うことは、駅には階段もあり、自ら切符を購入して乗らなければなりません。 初めは昼間の通勤客が少ない空いた電車で体験を積みました。
それもできるようになった後、電車でデパートに行き、ある程度の人混みの中を、階段やエスカレータなども利用することが出来るようになりました。
事故発生から、既に一年半が過ぎていました。そこで、社員教育研究所の社長にお願いし、とにかく、「通勤の練習の為、協力をお願いします。」と申し出、毎日通勤時間帯に電車に乗り、新宿駅南口近くにある研究所まで通う事に成功致しました。 勿論初めは半日で帰宅致しました。
次第に 自信がつき、午後5時まで研究所に滞在できるようになった時、社長から、「雑役を手伝うようにしたらどうか?」との提案を頂き、コピー取りや教材の整理などを手伝わせて頂きました。
この頃には、一人で教会にお参りに行かせて頂いておりました。
教会にお参りする度に、私の体調も良い方に良い方にお導き頂いている事が自覚できる程になりました。
そんな状態が続く内に、私自身も次第に、「講師職」に復帰したい気持ちが湧き上がりました。
それから3ヶ月経ち、社長から、「講師の補助をしてみたらどうか?」という提案を頂きました。
本当に嬉しい一言でした。恐らくこの間の私の動きや頭の回転等を見定めて下さったものと思います。
本当に嬉しく、益々勇気をもらった感じが致しました。
更に有り難いことに、講師補助の話があってから、アルバイトの給与を頂けるようになりました。
少額とはいえ本当に嬉しく、自信が湧き上がって来ました。
講師補助から3カ月後、第二講師に昇格致しました。
給与もアルバイトから正規雇用の給与を頂けるようになりました。
事故前の状態に戻りつつあることを実感でき、本当に涙が出るほど嬉しかった事を今でも思い出します。
第二講師を半年経験させて頂いた頃、私の心の中で、「大学での教師の任務も出来るのでは無いか?」と強く感じ始めました。
平成六年(1994)の暮れに、以前お世話になり私の事を高く評価して下さっていました文部省の課長様に一度面談する事を思い、連絡させて頂きました。課長様からは「足立君どうしていたか?心配していたぞ」と言って頂き、文部省内で食事を共にし、昔話に会話が弾みました。
その後、何回かご挨拶に伺い、近況などもお話ししておりました。
翌平成7年(1995)の4月28日(金)に履歴書を持って課長様にお会い致しました。
課長様は「そうか大学に復帰したいのですね。
少し時間を下さい」との返事が返って来ました。
私は、もう気が動転する程の思いと感謝の気持ちで一杯でした。
講師の仕事も順調に進み、教会に日参は出来ませんでしたが、出来る限り足を運び、教祖様に「私に相応しい職場を与えて下さい。」とご祈念させて頂きました。
間もなく、課長様から連絡が入り、文部省に伺いました。すると、課長様から思いがけない言葉を戴きました。
「実は、私が非常に信頼している群馬の教育に熱心な先生が、来年短期大学を開設する。
そこで足立君を推薦しようと思うがどうか?」というお話しを戴きました。
突然でしたので、本当に驚きました。有り難くて涙が出ました。
勿論、私はその場で、「お願い致します。」と心より感謝と共に、何度も頭を下げたことだけが思い出されます。早速、「履歴書」を改めて書き上げて、課長様に届けました。
平成8年(1996)の2月、短期大学を開設する当の理事長先生から連絡が入り、「3月2日、一度群馬に来て下さい。」とのお話しでした。
事実上の面接試験であったのです。
緊張して、群馬に伺いました。
私立大学ですからこれまでの国立大学とは勤務内容・状況等、かなり違うことは話に聴いて覚悟をしておりました。
早速、理事長様にお会いして、面接らしきお話しを頂きました。
今思えば、文部省からの推薦であった事で、恐らく理事長先生も「受け入れるという前提での面談では無かったか」、と今では思えます。
冷静になって考えて見ますと、新設する短期大学は最低1年前に、大学の建学の精神・カリキュラム・教員人事を固め、申請します。
実際に、昌賢学園群馬社会福祉短期大学も、平成7年(1995)9月に申請し、12月下旬に認可された、とのことでした。
私の面接は平成8年の3月2日でしたから、恐らく既に大枠の人事・人選は終わっていたはずです。そんな状況下で、私を採用して頂くという奇蹟に近い状況でした。 帰宅後、直ちに、教会に参拝し、
教祖様にお導き戴いた御礼のご報告をさせて戴きました。
それからが本当に忙しい毎日でした。
第一に、社員教育研究所の社長に報告し、今までのご厚意に感謝すると共に、正式に退職の手続きを致しました。
第二に、大学設置準備室の職員と連絡を取り、準備しなければならない「講義」や「演習」のノート作り、授業計画・シラバス等の作成に追われました。
平成8年(1996)4月1日に、私も他の新任の先生方と共に正式な辞令を頂きました。
早速、任命された教職員による入学式に向けた準備が始まりました。
学校法人昌賢学園群馬社会福祉短期大学専任講師として、ここに大学教員生活がスタート致しました。
通勤には、上越新幹線を利用しても家から大学の研究室に入るまでに約2時間10分程度掛かる事が第一に問題でした。
順調に大学教員生活も進むと思っていましたが、どういう訳か理事長・学長から理由も分からずに学長室に呼ばれ、大声で叱られました。
はじめは「どうして私の任務でない事まで叱られるのか?」全く理解できませんでした。形としては、教員の代表で叱られていたようです。
数年後の話ですが、理事長・学長は、私を信じていたために、他の教員を叱ることなく、私を叱ることで、学内の綱紀を引き締めていたことがわかりました。
平成11年(1999)の8月から10月には、学長の許可を頂き、フランス・イタリアを中心に、研究の為に研修出張を認めて頂きました。
事故後、初めての海外研修でした。
平成14年(2002)短期大学から四年生の群馬社会福祉大学に改組し、私は準教授に昇進し、ボランティアセンター開設に伴って、ボランティアセンター副センター長兼ボランティア委員会委員長に任命されました。
平成22年(2010)にはボランティアセンター長に任命されました。
大学と致しましては、平成20年(2008)看護学部を新設、平成23年(2011)リハビリテーション学部を新設し、現在は、三学部・一学科の体制となりました。
大学の名称も、群馬医療福祉大学となりました。
大学が発展するに伴い、平成14年(2002)私が60歳の時に教授に昇進し、更に平成25年(2013)短期大学部長に任命されるなど、理事長・学長先生の側近として勤めさせて頂いております。
大学に復職してからは、信仰と仕事が非常に密接に関係している事が分かりました。
現在私は、『靈源會』の責任役員をさせて頂いております。その尊い場を賜りまして、色々と経験させて頂いております。
「教祖様 お救い戴きまして誠に有り難う御座いました。」