人智をもって計り得ぬ現象を 人は奇蹟または偶然と思い驚く

 一般の人は、奇蹟といえばめったにないもの、そして常識でありえないものとして驚いている。しかし真実の世界は、奇蹟でないものは一つもない。

 今日、文化が非常に発達したように思っているが、それは大海に落とした一滴の油の厚みにもすぎない、極めて浅薄な文化である。

 一輪の花が咲いても、ボーフラが蚊になっても、卵からヒヨコになり、嘴(くちばし)ができ、羽が生え動き出しても、その原理は説明できない。しかし人間は鈍感で、馴れてくるとそれを平凡視してしまう。そして何か他にない、類をみない、常識で計ることのできない現象が現われたとき、それを奇蹟として驚いている。だがそれは、事新しいことではなく、現に今いっさいのものが、それと同一原理によって存在しているのである。

 人間の五感による常識がいかに浅薄であるかは、いまかりに音の例をとってみても、この大きな地球が唸(うな)りをたてて自転している。その音が耳にはいらない。

 また、蟻が、千匹、万匹と行列していても、ひとつも耳にはいらない。色にしろ、音にしろ、なんにしろ、人間の五感に触れる範囲は非常に狭い。

 その浅薄な常識をもって判断しているところに、奇蹟の原理を把握することができず、驚く者と、その現象を見ながら、迷信視して否定する者とがいる。

 しかし科学が進歩すれば、奇蹟を自由に起こしうる時がくる。現に靈源會ではその原理に則って、毎日、万事のうえに限りなく奇蹟が起きている。

 今は物質文化時代であるが、その反面に、精神文化というものがある。そして、精神と物質の二つに分かれるその一歩奥に、いっさいを自転せしめ、興亡盛衰を支配している“真理”というものがある。

 それを把握し、その道に則ってものに当たるとき、人智を超越した現象が起こる。それが奇蹟である。

 その原理を知らないゆえに、現象を見て驚き偶然と人はいう。しかしそこには、想像を絶した驚嘆すべき事実が充満している。今日の物質文化も、そこに到達してはじめて人類を益する文化となるが、それを見落として進むときは、文化が進歩するにしたがって、ますます人類の不幸は増大する。

 それはあたかも立派な自動車に乗りながら、居眠り運転や、酒に酔って運転するのと同様であり、性能の優れた車ほど事故は大きい。それが今日の世界情勢の真相である。

 ゆえに物質文化の反面の精神文化、そして更にいま一歩奥にはいって、真理の究極を把握するところに、人類の理想郷と永遠の発展がある。