体験発表

西口 正子(吹田市)
教祖様、日々御守護賜りまして誠にありがとうございます。
日々を家族一同、平穏無事にお守り賜っていますこと、深く感謝申し上げます。
教祖様、本日は意義深き栄えある御開教記念祭、誠におめでとうございます。心より御慶祝申し上げます。
本日の尊い御式典に会長様より、もったいなくも奇蹟体験発表のお許しを賜りまして本当にありがとうございます。至らぬこともございますこと、何卒お許し賜りまして心より発表させて頂きます。
昭和47年3月26日、私達家族4人が千載一遇の御縁を賜りました入信の動機について御礼言上させて頂きます。
昭和46年10月、次男を出産するため、当時2歳でした長男・篤志を近所の知り合いの人の紹介で保育所に預かって頂く事になりました。その当時、朝、主人が保育所に連れて行ってまた、夜帰りに保育所へ迎えに行くという日々でしたが、篤志は主人が迎えに来るまで泣き続けていたということです。
私が出産後、家に帰ってきたとき、篤志が風邪気味で弱っている様子です。
それで当時かかりつけの大阪・中津の回生病院小児科部長の内村先生に診察を受けるため主人が篤志を連れて行ってくれていましたが、先生は小児科医師としては、外でダメと言われた患者さんも助けて頂けると聞いていましたので信頼をしていましたが、待合室は先生の受診者で満席の状態でした。ですからやはり3分診察という状態だったと思われます。投薬と何回かの通院が続きました。篤志は熱も下がり寝ているのですが、何かグッタリしています。顔は赤味がなく青白い状態です。私は熱がないので回復していると思っていたのですが、何か様子がおかしいので帰宅した主人に話してみたところ、主人は近所に住んでいる兄のところに電話で聞いてみました。兄は『それはおかしいから近所の町医者に行って診てもらうとよい』とのこと。篤志を自転車に乗せて豊中市庄内の町医者に連れて行きました。夕方で、先生は通いのため、帰りの戸締りをされていたそうですが様子をみられ、もう一度戸を開けて診察をして下さいました。
レントゲンの結果、『明日までどうなるかわからない状態です』と言って、肺が真っ白な写真を見せて下さったということです。『すぐにかかりつけの医者に診てもらいなさい』と言われ、自転車は道端に置いて、車で中津の回生病院に駆けつけて小児科病棟に入院しました。先生は大阪大学医学部の学会の会に出ておられるということでしたが、篤志の入院を聞かれ急遽病院に戻って来られ、篤志のベッドのそばでじっと腕組みをされ、立ち尽くされていました。
篤志は酸素吸入器をつけられていました。それでも元気に『バカヤロー、バカヤロー』と大声をあげて嫌がっていました。婦長さんが『篤っちゃんはこんなに元気なので大丈夫ですよ』と慰めてくださっていました。
先生の診察結果は肺炎ということです。肺炎とは、肺に水がたまりますが、菌が片肺から両肺になると危険ということです。毎日当時1万円の注射を打って治療をすることを勧められましたとき、主人の実家が金に糸目をつけないで治療に専念するように伝えてきました。それで毎日背中より大きな注射器での注入が始まりました。その度にお父さんに抱かれて大声で泣く篤志の背中に注射の治療が続きました。そしてある日先生より、その後の診察の結果、『肺に膿が溜まっているので、摘出手術をします』とのことです。またお父さんにしっかり抱かれて篤志の背中より大きな注射器で、誠にびろうな話で申し訳ございませんが、牛乳ビンに2杯半くらいのきれいな色の膿が摘出されました。
入院生活は2ヶ月になりました。篤志は何とか一命を取り留めることが出来ました。この間2ヶ月間、家族が病院生活を送ることになりました。主人の勤務先が病院の近くでしたので、主人は病院からの出勤となりました。
生まれたばかりの次男・浩司を病院側が責任を持って新生児室に預かって下さいました。産後間もない私は、その日から着のみ着のままの入院生活が始まりました。篤志の看病、赤ん坊の授乳と休む間もなく一日が過ぎてゆきます。
私自身も肥立ちが悪く、誠にびろうな話で申し訳ございませんが、産後の下りものが止まらずに何度も産婦人科で診察を受けましたが、治療は一向にはかどりませんし原因も分かりません。母乳でしたが、私も食事が思うように取れません。そのうちに母乳が出なくなりました。それでミルクに変えました。授乳時、ミルクに変えると味が違うと大声で泣きます。それで仕方なく授乳を続けていたら、母乳が出るようになりましたが、私の身体は当然段々と弱っていっていたと思います。
退院と決まったある日、ベッドの上で授乳中に天井がぐるぐるまわりますので地震かと思いましたが、電気のヒモが全然揺れていません。私はその場でベッドに伏せて倒れてしまいました。病院では診察の結果、強度の貧血という事でいく種類もの投薬治療になりました。
それでも私にしてみますと、自分の事より篤志の事が気になります。退院が12月25日、2ヶ月間の入院生活でしたが、何とか篤志は命を取り留めることが出来ました。そんなある日、篤志がベッドから降りて歩くとき、身体が右側に何だか歪んでいることが不審でしたので、インターンの女医さんに聞いてみましたが、言葉を濁して答えて下さいません。何度もお聞きしましたところ、ようやく話して下さり、それは強度の膿胸という病気の後遺症で、右胸の胸膜と胸骨が癒着しているということでした。事例としましては1歳前後の幼児に多く、癒着しても軽く、全治しているということで、篤志の場合は右胸の癒着が強いということです。それで内村小児科部長が、レントゲンにて説明して下さり、『この癒着は奇蹟でもない限り治りません』との話に愕然としました。
それで1枚の紹介状を書いて下さいました。兵庫県にある子供病院の公文先生宛でした。この先生は側湾という背骨が変形する病の治療にたずさわっておられ、『主婦の友』にも紹介されていました。
私は指定されました日に次男・浩司を連れ公文先生に診察を受けました。先生はレントゲンを高く上げ、『何故この様な治療になったのか、現在の医学では考えられないです』と言われ、治療法としては何も出来ないということです。そして、現在篤志が成長期のため『癒着している右胸より左胸が発達して、破裂も考えられます』と言われ、私は全身の血が逆流するような衝撃で、その場に立ち尽くしてしまいました。『一度子供病院にでも入院を考えてもよいですね』とのことでした。篤志の手をひいてどの様にして帰ったかわかりません。梅田で待っていてくれました主人も話を聞いて目頭を押さえていました。その日から私は、あちこちの医療病院に問い合わせを始めましたが、どこも『治りません』との答えです。毎日、途方に暮れる日が続きました。
そんな折、篤志が近所のはり治療院で相談させて頂きました。先生は、『何かがありますね。一度、西宮にあります霊媒師をご紹介しますので、そこに行ってみてください。何か原因が分かると思います』と言われました。そして日にちを決めて頂きました。
その次の日に出かけることになっていましたが、主人が帰宅してそのことを話しました。その時に主人が『実は会社の専務が、今日、梅田の阪神百貨店の前で大学生が演説していて、病気が治る話をしていた。私も以前キリスト教信者が、目の見えない人が見えるようになって部屋のまわりをぐるぐる回って喜んでいた姿を見たことがあるから、一度梅田に行ってみたら』と勧めてくださったとの事です。それで主人はすぐに梅田に行ったのですが夕方で終わりかけていて、あわてて1枚のチラシをもらって帰ってきたと言うことです。そしてそのチラシには
教祖様の深遠な御道話と信者さんの奇蹟体験談が載っていました。心打たれる思いがしました。
それは梅田毎日新聞ホールでの御講演会のお知らせでした。私がはりの先生から明日行くようにと言われて西宮の霊媒師の所に行こうと思っていましたが、御講演会も明日です。迷いましたが、御講演会は明日1日しかないことを考えて、御講演会に行かせて頂く事に決めました。次男・浩司は未だ6ヶ月くらいですので、近所の家で預かって下さいました。そして家族で毎日ホールでの御講演会に向かわせて頂きました。8時間に及びます御講演会にて
教祖様お出ましのもと、御道話を初めて拝聴させて頂きました。世界の戦争はほとんどが宗教戦争であると拝聴させて頂きました。
御講演会が終わりましたとき、私は不思議を感じました。病弱だった私が全然疲れていないこと、8時間も座っていると尾骶骨が痛くなりますのに、何かで身体を持ち上げて頂いている様に何の痛みも感じませんでした。
家に帰りまして、一度教会へ行ってみようと思いました。主人はあまり気が進まないようでしたので、私は篤志と浩司を連れて教会へ行かせて頂きまして入信のお許しを賜りますようにお願いしましたが、『子供は両親の間から生まれて来たものです。ご主人も一緒に入信させて頂くことが大切』ということでした。それでもう一度、門をたたきましたが、お許しを頂くことは出来ませんでした。
主人に2年間だけ一緒にお参りさせてお願いしましたところ、一緒に入信もさせて頂く事が出来ました。そして昭和47年3月26日、家族4人で入信のお許しを賜りました。事務局より『薬はやめること。あなたの所は因縁が深いので30日間、日参をさせて頂くように』と御指導を賜りました。
その後、青白い篤志の顔に赤味が戻ってきました。薬による全身の湿疹がきれいに消えていました。発願事項は『右膿胸後胸膜癒着胸部左右変形』です。私自身についてはまず肩こりですが、退院時は洗濯板が背中にはられたように、肩こりになっておりまして、赤ん坊をおんぶすることは出来ませんでした。
受付で発願させて頂くときに、『肩こり、胃、左肋骨の下痛み』としてお許しを賜りました。
30日間の日参も無事に済ませて頂きました。その後、次々とありがたい御守護を賜りました。誠にありがとうございます。篤志のことで一生懸命お参りをさせて頂いているうちに、自分の祈念は一度もさせて頂いたことはございませんのに、気がついてみればいつの間にか、あれほどきつかった肩こりがすっかりなくなっていました。また、大変びろうな話で申し訳ございませんが、産後のおりものがずっと続いていまして、産婦人科でも治りませんので病院で漢方の薬を煎じて飲んだりしていました。御縁を賜ってからは毎月生理の日になりますと信じられないくらいのおりものを排泄して頂きまして、座ることも出来ず、洋服・スカートが汚れていることを他人より教えて頂いたこともありました。こんな状態が毎月続いたら、私は貧血で死んでしまうのではないかと心の中で案じていましたが、半年ほどしてピタリとこの激しい現象は止まりまして、正常な状態に治して頂きました。そしてそれっきり産後、ずーっと続いていましたおりものがすっかりなくなっていました。ホッとしました。そして不思議な御守護にただ感謝申し上げさせて頂きました。
また、2ヶ月あまり靴の生活をしていましたので、両足になっていました。病院で一度調べて水虫の薬をもらいまして治して頂きました。退院後、再び水虫になり、なぜかと思ううちにすっかり治っていました。きっと薬でおさえられて完治されていない水虫を尊い御神光で完治して頂いたことと思いました。本当にありがとうございます。
また、私は貧血の薬も飲んでいましたが、それもやめました。入信後のある日、早朝より激しい目まいに襲われました。どうする事も出来ずに主人が救急車を呼びました。そして救急隊員の人がタンカで私を車まで運んで下さったのですが、その揺れるたびに激しい吐き気に襲われ、苦しみました。やがて豊中市民病院に到着してベッドの上に寝かされたとき、反対側の(広い部屋の)ドアが開いて宿直と思われる医師があくびをしながら入ってこられました。そのとき私は、誠にびろうな話で申し訳ございませんが、思わず吐き気を感じ飛び起きまして、両手で受け止めました。緑色の透き通ったゼリーの様なものでした。その瞬間に激しい今までの吐き気がすっかり治っていました。そばに来られた先生はそれでも元気な姿の私を見て『注射でも打っておきましょう』と言って注射をして下さいました。すっかり元気になった私は、履物がないのでスリッパを借りて電車で家まで帰りました。
偉大な御神光にお守り賜りまして、私は今までの貧血の薬を全部排泄して頂きまして、健康な身体に戻して頂けました。御救済現象を賜ったものと思いました。その後、家族一同現在まで日々を尊い御神光に包まれまして健康に過ごさせて頂いていますこと、家族一同深く感謝申し上げます。
それからは篤志も一年生に成長させて頂きました。そんな時、担当の先生が家庭訪問で、『西口さんの給食を食べるのが遅いので学級全員で終わるまで待っているのですよ』と言われました。何故なのかと思ってました。そして家でも特にお水をゴクゴクと一気に飲むことがありますが、篤志が苦しい苦しいとしばらくは辛そうな状態が続いていますがやがて治ります。
また、夏にプールへお友達の家族と遊びに行ったときも、食後、篤志がとても辛そうに『苦しい』と言います。胃の辺りが何かふくらんでいます。そしてやがて治りますと元気になって、また皆と遊びだします。
私は、御神光にお守り賜っているのに何故かといつも思っていました。
そして篤志が小学校1年の2学期の初めの頃、朝6時ごろ、急に『お腹が痛い』と言って苦しみ出しました。尊い御供物を何度も頂きましたが、一向に痛みが治りません。あまり長引きますので医学書を開いて思い当たるところを見ましたら、似た症状で『腸重積』と書かれていました。教会に連絡をさせて頂きました。『あなたの子供ですからあなたが判断しなさい』と御指導頂きました。悩みましたが、とにかく何の病気か街のお医者さんで診察を受けるために出かけることにしました。
病院では、先生は『どこも悪くない』との診察です。しかし篤志は痛みと苦しみで辛い症状がずっと続いています。先生が『ここでは分かりませんので高槻市のみどりが丘病院へ行って診察を受けて下さい』と言って、救急車を呼ばれました。それで篤志を救急車に乗せてみどりが丘病院へ向かいました。ちょうど、出発直後、角のところをまわった時に向こうのほうから一人家においてきた次男・浩司が一人でこちらへ向かって走ってきています。すぐにお願いして車を止めてもらいまして浩司も乗せて頂きました。未だ幼い浩司は救急車に乗ってうれしそうでした。これでホッとしました。この間、道路を救急車が横断する間は何秒かと思いますが、心配していた次男が走ってきたタイミングの良さは、ありがたい御守護を賜ったものと思いました。
そして救急病院では、小児科の先生、外科の先生、そして看護婦さんと診察が続きましたが、一向に原因が分かりません。小児科の先生がずっと苦しみ続けている篤志をご覧になって『一度入院してみましょう。どこも悪くないのでぜいたく病かも知れないし』とのことです。私は悩みました。ベッドに横たわっている篤志のそばに行って
『教祖様におすがりさせて頂くか入院するかどうか』聞いてみました。篤志は苦しそうに、
『教祖様にお願いさせて頂く』と答えてくれました。
私はこの時、入信後3年間平穏無事に家族4人お守り賜って来ました日々を思いました。そして、日参のときに、奉読のときに『真一文字に縋れ、神の道に反しなければ必ず救われる』という御道話を思い出させて頂きました。そして『この神様に命を預けよう』と思いました。『今までの御守護を思い何があっても後悔しない』と心に誓いました。決心させて頂きましたことを医師に伝えました。この時、たしか午後一時頃になっていたと思います。医師も看護婦さんも私の申し出に驚かれて、『この子を連れて帰ったら死にますよ』と何度も止められましたが、私は一度家に帰り、用意をして教会へお参りさせて頂こうと思いましたので、お礼を申し上げタクシーで帰りました。タクシーでも揺れるごとに篤志は『苦しい、苦しい』と訴えます。運転手さんも心配して声をかけて下さっていました。
家に帰り篤志を寝かせ、お福茶碗に御神草を作り頂かせました。そして、私は神棚に向かって泣きながらお参りをさせて頂いていました。その時、うしろで寝ていた篤志が、『お母さん、治ったッ』と言って飛び上がって喜んでいます。ビックリしました。思わず抱きしめて泣いてしまいました。
『教祖様ありがとうございます』と心の中で御礼申し上げさせて頂きました。その直後、篤志が御救済賜りまして元気になりましたことを、みどりが丘病院に電話で伝えました。先日『連れて帰ったら死にますよ』と心配して下さいました看護婦さんは『あ~そうですか、良かったですね~』と、信じられない様に答えておられました。そして夕方になりましたが、教会へ篤志と御礼のお参りをさせて頂きました。この奇蹟を教会にも御報告させて頂きました。
その日から篤志は何事もなかったように元気に毎日を過ごさせて頂いていました。あの時の現象は何なのかといつもいつも考えさせて頂きました。そして半年くらい経ちましたときに、ハッと気づかせて頂くことがございました。
水を飲んだり、食事の後しばらく苦しそうにしていた篤志の状態がなくなっていることに気づかせて頂きました。そして半年間も私はそのことに気づかせて頂くことが出来ませんでした事の申し訳なさを心よりお詫び申し上げさせて頂きました。そして2歳半で癒着と診断を受けましたが、それは医師が胸の中までの癒着を確実に診察出来ずにいたと思いました。私は、おそらく癒着は胸だけでなく胃のほうにも癒着が生じていたのではないかと思いました。そして、成長するに従って胃が癒着しているために食べ物や水を受け入れると、無理が生じていたと思いました。そしてそのことを篤志の苦しそうな辛い状態で分からせて頂きました。そしてこの度の奇蹟救済現象にてその癒着をはがして頂いたものと思いました。誠にありがとうございます。
その後篤志は、日々お守り賜りまして健康に成長させて頂いていました。そして高校から大学への進学するときに公文先生を訪ねました。その時、先生は篤志の成長にしばしば無言でした。3歳くらいのときに先生が篤志の診察をして下さいましたとき、『最悪心臓破裂と考えられます』と結論付けられましたが、目の前の健康な篤志の姿に言葉がなかったように思われました。そして私は先生に診察を受けました後、医療関係のところに訪ね歩きましたが、治療法はないとのことで毎日途方に暮れていたこと、そして子供の命を救うために神仏に手を合わせさせて頂く気持ちになりましたこと、そして霊源會の信仰に家族4人で入らせて頂きましたこと、そして篤志が小学1年生のときに癒着を御救済賜りましたことについての数々の奇蹟体験をお話させて頂きました。先生は、カルテに英語で私の話をずーっと書き込んでいかれました。そして先生は、『今日は診察のために必要な器具がないので、後日もう一度来て下さい』と言われていたので、篤志ともう一度診察のため伺いました。そして無事に診察して頂きました。 それからしばらくして、公文先生より電話がありました。『もう一度来て下さい』とのことでしたので、篤志と伺いました。その後、先生が何故3度も呼んでくださったのかを電話で尋ねてみました。
先生は、『実は、1回目に診察したとき、篤志くんの右肩甲骨が後方に飛び出ている状態でしたが、2回目に診察のとき、その肩甲骨が正常の位置におさまっていたので、もう一度確認の診察をさせて頂きたかったのです』と申されました。以前より右肩甲骨のことは、私はとても気になっていました。このことで本人と話し合ったことはありませんでした。あまりそのことで心配させたくないと思っていたからだと思います。こんな不思議なことがあるのかと思いました。医学者も驚く現象を賜りましたこと、心より感動いたしました。そして心より感謝申し上げさせて頂きました。
そして、私は、この事実を小児科の先生にお話させて頂くことが大切と思いました。 それで病院に連絡して先生にお時間を頂くことができました。それで、先生に信仰のお話と日本精神のお話をし、出版物を渡しました。先生は私の話を否定されずに、ていねいにお聞き下さいました。そして出版物もお受け取り頂きました。その後、篤志はお守り賜りまして大学進学、そして就職させて頂きました。そして平成9年に甲状腺に3ミリくらいのガンが見つかりました。神戸の隈病院にて診察の結果、1~5までの間の4位とのことでした。家族で発願させていただきましてご祈念させて頂きました。そして平成17年ごろに吹田市南千里の済生会病院の診察の結果、ガンは水に変えて頂いていました。その帰り、すぐに篤志と一緒にお礼参りをさせて頂きました。その後、篤志はしばらく家で仕事を休んで生活を送っておりましたが、平成19年1月2日、尊い御神光にお守りお導き賜りまして、眠るが如く本当に安らかに転生させて頂きました。年齢は39歳でした。
教祖様誠にありがとうございます。
主人は『心臓神経症』で入信のお許しを賜りました。この病は、他人からは全然分かりませんのですが、原因は分かりませんので急に苦しくなって息が出来なくなるということで、近所のクリニックで時々診察を受けていましたが、先生も精神的なことですので慰め程度の診察を受けていました。
入信後一度、強い症状になりましたときに、一心にご祈念させて頂きました後、パッと何事もなかったように治して頂きました後は、すっかりなくなって日々健康に過ごさせて頂いて、会社経営に携わらせて頂いていました。昭和53年に会社経営に入らせて頂きました。お守り賜りまして知人、友達、兄弟と周りの人達から計り知れない助けを頂きまして、平成9年11月10日、転生させて頂きます日まで無事経営を続けさせて頂きました。その傍らイラストも頼まれて描いていましたが、御神光にお守り賜りまして心の琴線にふれますほのぼのとした絵へと作品が完成されていったように思います。
次男・浩司は『健康賢児』にて、生後半年で入信のお許しを賜りました。2ヶ月間の入院生活のため、産後間もなくお兄ちゃんの病室の片隅に小さな身の丈ほどのベッドで元気に過ごさせて頂きました。入信後現在まで体内に薬を入れることもなく、病院にかかることもなく平穏無事にお守りお導き賜りまして今がありますことを心より深く感謝申し上げます。
本日は大切な体験発表の場を賜りまして誠にありがとうございました。
何卒、今後共、正しい家族信仰の道に入れますようにお守りお導き下さいませ。