利己主義は、痒(かゆ)きを掻いて皮肉を破るが如し

 今日のごとく文化がすすみ、交通通信機関がますます発達してくると、昔のようにおっとりと構え、ぐずぐずしていたのでは他人(ひと)にとり残されてしまう。そうかといって、他を顧みない、自己中心のやり方をしてゆくと、また社会から遊離して孤立状態に陥る。

 その中間を得るということが大切だが、多くの人は、その肝心のところを見落としている。それでつい、人を押し倒し、押しのけて、われ勝ちにという自己中心の考えで日常をすごしている。

 社会環境で自然そうせざるを得なくなってきているが、それにしても、昔も今も変わらない根本の原則を見落とすと、大成することができなくなる。

 またその逆に、他人ばかり良くして、そして自分を忘れると、それも自己が成りたたなくなる。

 明治時代ぐらいまでは、お互いに譲り合いをして、そこに円満な平和が得られていたが、このごろは通勤電車などの乗物を見ても、みな必死になって乗り込んでいながら、あまり早く乗り込むと、自分の降りるべき駅で降りられずに乗り越してしまう。だからわれ先にと乗り込んでは入口で頑張っている。

 そのためにつぎの人がはいれないで入口はますます混雑する。しかしこれもやむをえない。グズグズしていたのでは時間切れで、目的の会社に遅れてしまう。

 その日々の習慣から、万事のうえにその気分が現われて、多くの人が利己主義に片寄り、世間が昔と違って人間味を失ってしまっている。だが人は、お互いに助け合い、もち合いしてゆくところに、ほんとうの道がある。

 ある場合によってはやむを得ないとしても、平常でも、その非常状態を当然の道と思って、そしてその習慣が性格になってゆくと、ついには孤立して没落してしまう。

 ゆえにその中間を得るということが非常に大切で、商売をするにしても、他人(ひと)との交際でも、自分ばかりの利益に走ったのでは必ず孤立する。そうかといって、人のためばかり思って、自分を謙遜し度を越して控え目にすると、やはり没落する。

 そこで一番肝心なことは、何事にしても、相手とこちらの利害の共通点を見いだし、その中庸を得ることで、そこに周囲との調和があり、永続性がある。

 商売ならば、まず大衆のためになり利益になることを見い出し、そのうえで、自分も不利に陥らぬように計画を立てる。

 ほんとうに究極を見つめてゆけば、必ずどういうところにも、利害の一致点が発見される。

 人間なり各動物が永遠に生存するためにも、男女、雌雄の調和が必要であり、また柏手(かしわで)にしても、両手を合わせて打つその中間に音が出てくる。

 一家を治めるにしても、夫婦が互いに欠点を補いあい、特長を生かして、そして調和するところに円満な家庭が築かれる。自分一人ということは非常に気楽のようだが、一代で滅亡してしまわねばならない。

 商売でも、粗悪品を高く売る店は客が去って衰微し、利益を度外視すれば永続きしない。

 しかし人は我慾によって利己主義に走り、一時的な目前の快楽を求めるから大成することができなくなる。それはちょうど、痒い皮膚病を掻くようなもので、気持ちがよいからつい掻いて自分で自分の体をこわしてしまう。そして皮膚が破れて出てくるウミは、結局、自我によって生み出された毒薬である。

 ゆえに人は、利己、利他の両主義のいずれにも片寄らず、その中心を見失わず進むところに、自他一如、共存共栄の道があり、真に世の中のためになる。