医者にあらずとも、病を治し得る者は真の医者  医者にしても、病を治し得ぬ者は医者にあらず 

 最近は医学がたいへん進んだように思い、また至るところに医者がたくさんいる。しかしほんとうの医者というものを識別する知識がなく、またそれを見分ける制度組織が完備していない。ゆえに医者の看板が掲げてあれば誰でもがそこへ行き、そして治してもらえるように思っているが、それは大きな間違いである。

 クスリでも、クスリと名がついていれば、自分の病やそのクスリの内容、欠陥を十分につきとめないで、無闇矢鱈(むやみやたら)に用いていることは、これまた大きな誤りである。

 仮りに料理や洋服をつくる場合、同じ材料、同じ生地を使っても、その板前や職人によって、上手下手の違いができてくる。何年やっていても下手な人があるし、年数をそう重ねないで上手な人もある。

 しかし料理や洋服の仕立てなら、素人でもウマイ、マズイ、上手、下手と区別がつくが、医者の識別となると、素人には非常に難しい。

 その理由は、人間には神から与えられた治癒力があって、病を自然になおす力を備えており、医者が少々下手なことをしても、その自然治癒力によってある程度の病は全快するからである。

 先日の新聞に出ていたが、患者が国立病院を相手にして損害賠償請求の裁判を起こし、480万円か損害を国が負担せねばならないことになった。

 あれも表面は医者のようであるが事実は全く反対で、誤った水虫の治療をし、ラジウムのかけ過ぎで皮膚ガンとなり両足を切断してしまった。ゆえに皆も、医者の看板が掲げてあるからと思って迂闊にかかってはいけない。

 その医者にかかった人たちのほとんどが、短時日になおっているかどうかの過去の実績によって、正邪善悪を判断し、選択することが一番である。

 ほんとうからいえば法律で、その医者にかかった全部の患者の経過と結果を大衆に公開して、それを見て判断することにすればよいが、現在のように、悪くなった場合は世間に発表せず、良くなった者だけを書きたて話題にのせていることはよほど危険である。たとえ同じように国が認めた医者であっても、上手下手によってたいへんな開きがある。ゆえに医者にかかる前には、その医者が、その病気をほんとうに治し得る医者であるかどうかを見極めてから、治療を受けないと大きな失敗をする。

 かけ替えのない生命をまかすのであるから、ただ無闇に飛び込んでゆくことは、危険極まりないことである。ほんとうは治療を受ける前に、医者に向って質問し、完全に治し得ると保証してくれる医者であればまず間違いはない。

 機械の故障を修理してもらう場合でも、事前に直るか直らないかを必ず聞いて、もし責任の持てないというような人に依頼したとしたら、それは依頼する方の大きな手落ちである。ましてや今日の医学界では、「責任はもてない」という医師がたいへんな数にのぼっている。だからかえって医者にかからずに天寿を待った方が、費用もかからずよかったとか、自然の治癒力によって回復を待った方がよかった、というような場合が数限りなくある。

 クスリにしてもほんとうは、その病に適した物質を、適量に用いて、しかもその病がなおる範囲内がクスリであって、その前後はクスリと名がついていてもクスリの価値がなく、逆に分量を誤れば毒に変わるものなのである。

 野山にあれば草木といい、八百屋の店頭にあれば野菜であっても、それが病をなおすことに役立ったときはクスリなのである。

 医者にしても同じこと。病を直し得ぬときは、いかに立派な医者の看板を掲げてあっても医者ではない。その逆に、たとえ医者の看板は掲げてなくても、病をなおしうる者こそ真の医者である。

 ゆえに今日は、医者という看板、クスリという名前だけで飛びついて、無闇にかかり濫(みだ)りに用いることは、大いに慎まねばならない。