子の親に似るを見ても 一精虫にまで因果の刻印あり

 最近の学問をした者は、「因果の法則なんぞ」といって、宗教臭い言葉はすべて迷信視している。  

 しかし因果の法則というものは仏教の発生する以前、世の始めから定まった根本の原則であり、いっさいものは因縁果の法則によって創り上げられている。その証拠に子が親に似ているという事実は、何人もこれを否定できない。そしてそれを突き詰めてゆけば、顕微鏡で何百倍にも拡大しなければ見えない、精虫一つ一つのなかに、祖先伝来の因果関係が封じ込められているのである。

 その極めて微小なる精虫が、母体内にはいり十ヶ月たつと、親によく似た顔形、内臓、髪爪、骨格、血液に至るまでの五体を具えてこの世に出てくる。そして声色(こわいろ)までが似る。

 ゆえに髪ひげ一本、血液一滴にもみな因果の原則が潜んでおり、血液型でいろいろと調べることができるというのはそのためである。

 また人は、陰でした事は何者も知らぬと思っているが、その因果の法則によって一分一厘の狂いなく現われてくる。それは過去が因となり、それにつぎの環境、行動、その他いろいろのものが加わって、明日の自己という結果が生まれ出てくる。

 ゆえに人は、その一挙手一投足を迂闊にして、軌道に外ずれたことをすれば永遠にそれが因縁となって、明日の自己のうえに現われてくるから軽率なことはできない。 これは仏教でいう言葉のようであるが、自然の法則である。

 いま仮りに五人の子供が生まれて、一人は農業をやり、一人は技術者、一人は官吏、一人は医者、一人は商人になって、そして十年経過して寄ってみると、みな縁によって元の本質から変わっている。

 ゆえに人は、親からどのように生みつけられていようとも、自分が努力し悪因縁を作らず、良い因縁を作っていって、より立派な自己の完成を心掛けねばならない。しかし無闇に努力しても“縁”の選択を誤ると、なかなか正しい幸福を得ることができない。

 今日の社会情勢は、一般の人々がその根本の因果の法則を等閑視し、あまりにも目前の浮薄(ふはく)な喜怒哀楽にとらわれて、収拾がつかぬほど堕落してしまったことは、非常に恐るべきことである。

 しかし、いかに時代がそのような無軌道状態に陥っていても、皆はその根本の原則を踏み誤ってならない。