“時”は万有存在の根本要素の一つである

  いかなる者も、賢愚の別なく、時の流れには従わなければならない。いかに智者が急いでも、より以上に進むことは不可能である。

 

 また百年後には、全人類のほとんどが超五感の世界へ押しやられねばならぬほど、時の流れは偉大な力をもっている。

 

 ゆえに昔から、時を空しゅうすごさず努力勉強すれば成功できるから、“時は金なり”といって、その大切なことを教えてきているが、実に“時”というものは一切価値の中心起点となる。

 

 いかにその“時”が重要な意味を持つかといえば、いま仮りに、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国時代の代表的人物が、年代を違えて生まれていたとしたならば、日本の歴史は大きく変わってくる。

 

 また人類も地球上に発生して、次第に“時”を経るにしたがい進歩発展してきたのである。

 

 お百姓も、米麦の種を時期を間違えて蒔いたなら、目的どおりの収穫は得られない。

 

 このように“時”というものは偉大な力を持っている。しかし多くの人は、その重大な“時”を見落として時代錯誤の旧観念にとらわれ、そしてその時代の有様(ありよう)を最高のように思い、つぎに変わってくる状態に気づかない。

 

 また今日の時代は非常に人智が進歩して、偉い者の集まりのように見えてはいるが、“時”が経過して、はじめてその真相が把握できる。

 

 たとえば今から数千年前、孔子、釈迦、キリスト、マホメットが出ているが、今から見れば至って簡単な、地球が自転していることに、また引力があることにも気づいていなかった。

 

 その地動説に気づかずにいたと同様に、現代人もまたつぎにくる時代の変化に気づかず、今日の常識によって明日の計画を立て、事を進めているところに大きな錯覚があり、いっさいにわたって矛盾が生じてきている。

 

 ゆえに人は、なにをするにも旧観念にとらわれず、常に時の流れ、神の道を見極めて、それによって善処していかなければ完全な策は得られない。

 

 そしてその“時の流れ”に順ずるか、反するかにより、すべてのものの興亡が決するのであるから、「時もまた神の道」である。