親の恩を知るも無限の神の愛は知られ難し

 ただ漫然としていると、人は五感によって、ほとんどのものを感じうるものと思っている。しかし人間の五感というものは、非常に範囲の狭いものであり、その範囲外にあるものについては、在りながら気づかない。

 音にしても、地球が二十四時間に一回転するその速度はたいへんなものだが、その自転の唸(うな)りが耳にはいらない。

また蟻が千匹、万匹と行列していても、その足音が耳にはいらない。

 光線も、人間の眼にはいる範囲は僅かなものであって、少しあたりが暗くなると、もう先が見えなくなってしまう。

 このように人間は、その範囲の極めて狭い五感によってものを判断するためにそれは、ものの実際の価値から離れてくる。

 ゆえに他からいろいろの恩恵をうけても、それを価値どおりに受け入れられるものではない。

 親の恩は、目が覚めてから寝るまで、また寝ている間でも、親は常に、子供をいっときも忘れる暇がないほど、心にかけ面倒を見てくれているが、あまり満ち足りてくると、人はそれを感じない。

 かえって、他人が、たまに物をくれたり、少し何か言ってくれると非常に喜んでいる。

 それより更に大きな、神の恩恵となると、もうほとんどの人がそれを自覚することができない。しかし神の恩恵ほど偉大なものはない。

 人間が日々生きてゆくのに、何が一番大切で必要なものかというと、いっときも欠かせぬものは空気である。そしてつぎには水であり、食べ物などは半月ぐらい絶食しても生きていられる。しかし水は最後まで必要なものである。

 更に五分、十分も欠かせない空気は、どこにいても、また貧富の差別なく常に自由に得られるが、その有難みを感謝する気持ちを起こす者はほとんどいない。しかもそれは無償で得られるようになっている。その仕組みというものはみな神の仕組みであり、摂理である。

最も多く必要なものほど、無償で、どこにいても得られるようになっている。

 また水は空気についで大切なものだが、最近は、都会では水道料金がいるけれど、田舎へ行けば自然に湧き流れている。

 しかし「金を湯水のように使う」とよくいうように、割り合いにその価値は認められていない。

 人間の体にしても、いま冷静によく考えてみると、日々、生きて健康が維持され、体の自由がきき、食べたものが滞りなく消化されて栄養化し、そして不要なものは自然に排泄されている。この仕組みにひとつ故障が起きても、その苦しみはたいへんなものである。

 呼吸にしても、排便にしても、また食べ物が喉(のど)を通らなくても、どこひとつ故障を起こしてもたいへんなことになる。

 ところが、神の道、自然の法則に順応してゆくと、七十年、八十年と生きても少しの故障がない。この生ま身の肉体が、缶詰にもせず吹き晒しで置きながら、腐りもせず長く生き続ける。

 これが眼に見えない偉大な神の摂理、恩恵によるのであって、あまりにも満ち足りているがために、人は無限の神の愛に気づかずにいる。

 今日の世界の人間が、浅薄な人智にとらわれて神を忘れ、そして自然の軌道から脱落しようとしている。そこにいま全世界人類の悩みがある。

 人間が正しく生きてゆくのには、昔も今も、永遠に実在している自然の法則、宗教的にいう神の道を中心基点として、それから落伍しないように、日々の行動を誤らず知恵を用いてゆくよりない。

 そこに健康と、そして永遠の幸福が得られるのである。

 今日の人間生活は、偉大なる神の恩恵、自然の法則を忘れているところに、大きな矛盾と摩擦、構想を生じて、一歩誤れば人類が滅亡してしまう非常な危険を孕(はら)んでいる。

 個人々々にしても、一つ神の道を外ずれて病を起こしたときに、人智で作り上げた浅薄な医学に頼って、悪ければすぐ切り取ってしまい、なおしてもらったように思って、不具廃人となっていることは誠に浅はかで呆れ果てる。

 ゆえにいま一歩ふみ込んで、冷静に心眼を開き、そこに永遠不動の真理天則、神の道の実在を悟り、それに順応してゆくところに、人智の用いどころがあることを知るべきである。

 現代人は今こそ、猛省して、再び神の道を認識し、それに従わすべく現代文化を用いるとき、はじめて今日の文化が人類を益する文化となり、人間は真の幸福と永遠の発展が得られるのである。