親の満ちたる愛よりも他人の一言一品の恵を喜ぶ

 人は、ものそのもの自体に価値というものを感じないで、現在から変化してゆくその度合いによって、善悪、幸不幸を感じてくる。どんな結構なものでも、増えず減らず現状維持でゆくときには、人は価値を感じなくなってしまう。

 仮りに大学を卒業して就職し給料をとるにしても、親を離れて、初めて他人から金を貰うときには、額の多少にかかわらず、非常に気持ちよくそれが受け入れられる。

 しかし暫くすると、それが当たり前で、他の多く取る人と比較して不満が出てくる。そのとき昇給すると、また暫くの間は喜んでいるが、それも慣れてくると、またそれ以上の人が目に写って不平が出てくる。

 あるいはまた、ダイヤモンドは高価な宝石であるが、人が生存するうえに直接、必要なものではない。しかし容易に得難いために価値が生じてくる。

 それに対し、人間が、瞬時も欠かすことのできない、生きるうえの最高要素である空気は、満ち足りていつも得られているから、人は慣れてマヒし、その価値も有難みも感じていない。

 また空気についで大切な水にしても同様である。この自然界は、最も必要な

ものは満ち足りており、貴賤貧富(きせんひんぷ)の差別なく、誰にでも得易くなっている。

 昔から物を粗末にすると、「湯水のように使う」というが、そのように得易いものは価値あるものでありながら、それを感じなくなってしまう。

 しかし人は、その点を常に注意して、ほんとうに価値あるものを大切にし感謝して生活してゆかなければならない。

 親の恩も空気に等しく、常に満ち足りて、子供が眠ってフトンから飛び出しても、ちょっと顔色が悪くても、何があっても常に自分の身以上に案じ守ってくれている。

 その愛し尽くされているがゆえに、慢性となって、その愛の価値を感じなくなってしまう。

 病気にしても、永年患っていると神経がマヒして感覚がなくなる。それを慢性病という。また暑さでも、寒さでも、同様である。

 ところが人は、他人から少し好意的な言葉や、たまに贈り物をうけると、その瞬間の親切を非常に喜んで、感謝の気持ちが湧き出てくるものである。

 ゆえに人は、その価値の標準を誤らないように自覚して、真に価値あるものを大切にし感謝してゆくところに、動物と違う人間の道が、生きて働いてくる。