靈源會は神と信者が直結する                  ゆえに信ずれば必ず実証によって救わる

世のはじまりから神は実在している。

その中心を、キリスト、釈迦、マホメットは、霊覚によって感応し発見した。

彼等は神を信仰することによって、理想の最高頂点が得られることを自覚し、ために努力し、近より立ち上がったのが従来の宗教である。

したがって、過去の宗教の理想目標は同一であるが、惜しいことに、距離をへだてているために、それは理想に終わって目的が実現できなかった。

しかしその中心原動力が、地球に非常な速さで接近しつつあることを霊覚によって悟り、後世に言い残している。

それら各霊覚者が感応し、遠方に認めた神が“時”来たって、地上の人体と一体化して御出現あそばされたのが教祖様であります。

ゆえにキリスト、釈迦、マホメット等の仲介により、神に接するのと違って、靈源会では、直接、神と信者が結ばれているから、太陽にふれる霜や氷のように、過去の悪因縁が消滅して最高の境涯に入られるのである。

真の神は一つである。

しかし昔は天動説であって、土地が固定し、天体が動くものと考えていたので、同一物であっても、時によって存在位置が変わってくる。

ゆえにキリストは、神を東方の天体に認め、“天の父なる神”と尊称し、釈迦はそれを西方の浄土に発見して、“阿弥陀如来(あみだにょらい)”と尊称している。そして日本では、“天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)”と尊称し、中天にその存在を認め伝えている。

このように、時と場所とによってその表現は異なっているが、神は一つである。マホメットのアラーも同一である。

それら信仰の対象となっている神は、万物を生む中心原動力であって、太陽が霜や氷を溶かし、それを本来の姿にもどすのと同様に、生命を照らし、魂を救済して、それを本然の姿にもどす。

その境涯にはいらしめようと、努力してきたのが既成宗教である。“時”が来たって、その中心起点が、人体と一体化してくると、はじめてこれまでのあらゆる宗教が、求めんとして得られなかった理想が実現し、地上天国、現世極楽に変わるのである。

その出現は、太陽が昇ると闇夜が明るい朝に変わるように、精神界、心眼の世界を照らし、人間の叡智と霊性と徳性は飛躍的に向上進化して、諸々の矛盾や対立抗争はおのずから解消し平和となる。

そして今日の物質文化も、真に人類を益する文化となり、過去の人々が想像しえなかった最高の理想境が訪れる。

その状態が、奇蹟と呼ばれる靈源會の実証である。観念的でなく、現実に起こる、それが実証である。

では、何故“神”というか。部分的、専門的に、人間以上の働きをすることは、他の動物にもできる。それを信ずれば迷信に陥り、身を滅ぼし、国を誤る。

ほんとうの神は一切に働いて、生前、現世、死後に至るまで、救済されることが実証される。この三世が救えぬものは、いかに高遠な哲理が説かれていても、“絵に描いた餅” “水に写った影法師”にすぎない。

靈源會はいうだけでなく、“なさずして成り、無為にして化す”実証の超宗教であり、真理そのものである。

信じて来たれば、いかなる悪因縁も、必ず消滅して救われる。

しかし、反すれば滅亡する。